町内の名所

東京大神宮

<ホームページから>
御由緒
江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。
明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、
東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された当社は、
最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。
関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、
戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。
http://www.tokyodaijingu.or.jp/

富士見町教会

<ホームページから>
富士見町教会は日本基督教団に属する、改革長老教会の伝統を持つ、
プロテスタントのキリスト教会です。
富士見町教会は、1887(明治20)年3月6日に創立され120余年の歴史を持つ教会です。
植村正久氏が、創立以来38年間にわたり牧師をつとめ、富士見町教会の基礎を築きました。
はじめ麹町一番町にあった教会は1906(明治39)年に富士見町に移り名前も変わりました。

以下は「まちの歴史」の記事です。
『昭和20年6月、終戦間際のある日
落下傘で降りて来る米兵を見つけて、町の人達はとび口や竹やりを手にして
殺気立って待ち構えていました。
ところが落下傘は富士見2丁目6番地の銀杏の樹に引っ掛かってしまいました。
何とか無事に銀杏の樹から手を挙げて地上に降りて来た米兵は、
青い目をした若くて可愛い青年でした。
それを見た町の人達は近くの富士見町教会に案内して逃がしてやりました。

終戦後、ヘレン・ケラー女史が平和大使として富士見町教会に訪れた際に
付き添ってきた青年が「この街の人達に助けてもらったお礼を述べたくて、
是非にと志願して来日した」との話が八田宣教師様から有ったそうです。』
(飯田橋プラーノ わがまち富士見の思い出 鹿島靖子氏より)

http://fujimicho-kyokai.org/2020.6.21

東京逓信病院

<ホームページから>
病院長 平田恭信(ひらた やすのぶ)氏挨拶
東京逓信病院は、
昭和13年2月に逓信省(現日本郵政株式会社)の職域病院として開設されましたが、
地域医療に貢献させていただくために、
昭和61年3月、保険医療機関の指定を受け、
以来、どなたにもご利用いただけるようになりました。
また、平成8年2月には二次救急告示医療機関の指定を受け、
東京都の救急医療の一翼を担っています。
さらに日本医療機能評価機構が実施している病院機能評価にも合格しており、
全面的に電子カルテを導入し、透明性が高く、安全で質の高い医療を提供しています。
とりわけ救急難民を作らない急性期医療機関、
がん難民を作らない総合的がん診療医療機関を自負し、
新しい医療とエビデンスを創造し発信して社会に貢献できる先進医療機関を目指しています。

https://www.hospital.japanpost.jp2020.6.21

日本歯科大学附属病院

<ホームページから>
所在地 〒102-8158 東京都千代田区富士見2-3-16
電話:03-3261-5511(代表)
病院長 三代 冬彦
歯科治療台数 168台
許可病床数 42床 個室:4室、2人床室:2室、3人床室:6室、4人床室:1室、
5人床室:2室、ハイケアーRoom(2人床):1室
医療従事者数 常勤 歯科医師:120名、医師:7名、看護師:25名、歯科衛生士:44名
歯科技工士:16名、薬剤師:2名、臨床検査技師:4名
診療放射線技師:3名、管理栄養士:1名、言語聴覚士:2名 他
沿革
明治40(1907)年 6月 私立共立歯科医学校を麹町区大手町に設立 初代校長 原田朴哉
明治42(1909)年 6月 私立共立歯科医学校が麹町区富士見町6丁目3番地に移転
私立日本歯科医学校と改称するに伴って、「日本歯科医学校附属医院」になる
昭和41(1966)年 10月 本学所在地番地、
千代田区富士見1丁目9番号(旧富士見町1丁目3番地3)に変更
昭和62(1987)年 10月 現在地・千代田区富士見2丁目3-16に歯学部附属病院を移転開院

http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/index.html
2020.6.21

桐生稲荷神社と十七会

桐生稲荷神社由緒 江戸時代、この辺を家元とする地主の屋敷内に稲荷社が建てられていた。 やがてその地主が屋敷を引き払うにあたり、稲荷社のみ町内の住人たちに寄贈し、以来この地域の守り神として崇められるようになった。これが桐生稲荷である。 桐生稲荷はもともと屋敷神(特定の屋敷に住む家族の守護神)として祀られたものであるが、これが非血縁者にまで信仰を拡大し、やがて地域の守り神として普及していったものと考えられる。 屋敷神の祭事は春と秋の二回行うのが通例であるが桐生稲荷の祭事は春のみで、毎年地域町会(富士見地区)の住民と宮司等が話し合い、四月の良き日を選んでとり行うこととなっている。(築土神社ホームページより引用)      「十七会」とは、富士見二-三あたりの旧町名地番「飯田町六丁目十七番地」にちなんで命名され、そこに居住する人々で組織された会である。(「千代田の稲荷」より)     日本伝承大鑑によりますと、桐生稲荷は別名「皿明神」とも呼ばれていたそうです。 有名な怪談「番町皿屋敷」では、江戸時代にお屋敷で働く下女が、誤って井戸に皿を落としたため殺されてしまい、夜な夜な化けて出てきたと…。 その霊を鎮めるために建てられたと言う伝承もあるようです。 真偽はわかりませんし、それがこの桐生稲荷に当たるのかどうかでも定かではありませんが。 怪談『番町皿屋敷』の原典は『皿屋敷弁疑録』ですが、それ以前にもこれに類似した話が書かれています。 中でも『江戸砂子温故名跡誌』では“牛込御門内で 下女が誤って井戸に皿を落としたために殺され、その後、皿を数える声だけが井戸から聞こえてきたのだが、その地に【皿明神】なる社を祀り霊を慰めたところ、声が聞こえなくなった。 その社は稲荷である”とある。 この話に基づいて古地図を見ると、実際にこれと推定される稲荷社が桐生稲荷です。  桐生稲荷は元を質せば個人の屋敷に祀られた稲荷社です。 三田村鳶魚氏によると、この屋敷には英国公使アーネスト・サトウの家族が住んでおり、その頃には『番町皿屋敷』を演じる者が詣でていたらしい。 現在よりも昔の方が由緒正しい社として認識されていたようです。  その後この屋敷の所有者はこの地を去ったのですが、この社だけは残していったようで、残された稲荷社は、やがて“お菊さんの霊を慰めた”という伝承の部分が消えてなくなり、土地の守り神としての性格だけが伝えられています。 現在の正式名称は桐生稲荷であり、「皿明神」という通り名はほとんど伝えられていません。 2020.6.21

桜の名所 外濠公園

外濠公園は、皇居外濠である牛込濠・新見附濠・市ヶ谷濠の内側に沿うように位置し、
JR飯田橋駅から市ヶ谷駅、四ツ谷駅まで約2kmの散歩道です。
外濠公園には、ソメイヨシノやヤマザクラなど約240本の桜があり、
公園が車道から一段上がった遊歩道になっているので、
ゆっくりと歩きながら桜のお花見を楽しむことができます。
外濠公園はJR中央線・総武線に沿ってあります。

(千代田区観光協会ホームページから)
http://kanko-chiyoda.jp/tabid/1120/Default.aspx2020.6.21

飯田橋サクラテラス

<ホームページから>
飯田橋駅西口の複合施設「飯田橋グラン・ブルーム」の
商業ゾーン『飯田橋サクラテラス』には、
レストランやカフェを中心に物販、サービス店など計26店舗が
2014年10月10日にグランドオープン。
毎日使える店から個性的な飲食店まで、
オフィスワーカーや地域の人々のニーズに応えます。

2019年8月には地域との共生を目指して、広げよう地域の輪!をテーマに
「サマーフェスタinサクラテラス」を開催、
盆踊り・(町会と協力して)子ども花火・キッチンカー・抽選会を実施しました。

https://mitsui-shopping-park.com/urban/sakuraterrace/2020.4.18

飯田橋プラーノ

<ホームページから>
PLANO(プラーノ)とは、英語で“にぎわいの広場”や“市場”を表す〈PLAZA〉(プラザ)と、
スペイン語で“設計図・青写真”という将来のビジョン(あるべき姿)を示す〈PLANO〉
(プラノ)を組み合わせた新しい街の名称です。
「良質で優しくにぎわいのある街になるように」との思いが込められています。
また〈PLANO〉(プラーノ)には、駅利用者や周辺地域の方々に気軽に立ち寄って頂けるような、親しみやすい語感を響かせました。

飯田橋プラーノは平成21年4月に
飯田橋駅前に富士見二丁目市街地再開発事業によって生まれた街です。
地上38階建ての住宅棟プラウドタワー千代田富士見
・地上17階建ての事務所棟ステージビルディング、
そしてそれら、2棟の建物の足元に配置された商業スペース、プラーノモールの
3つの施設から構成されております。
http://plano.co.jp/about.html2020.4.18