まちの歴史

昭和41年(1966年)住居表示の実施に伴ない、富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生しました。

富士見二丁目
江戸城の名残である外堀(外濠)に面したこの界隈は、武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。
当時、武家地には正式な町名が無く、道筋に土手四番町、裏四番町通などの呼称が付いただけでした。
「富士見」という町名が生まれたのは明治5年(1872年)のことで、
九段坂を上がったあたりから眺める富士山の姿が実に素晴らしいことから付けられた名前です。
九段坂を上がりきった台地(現在の靖国神社周辺)に富士見町一丁目から六丁目が誕生しました。
昭和8年(1933年)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。
同じ年、富士見町五丁目と飯田町六丁目の一部が合併して、富士見町二丁目となりました。

昭和22年3月15日 旧麴町区と旧神田区が統合され、千代田区が発足しました。

昭和31年10月27日 和富会の協力により、富士見二・三丁目町会の創立総会が開催。

そして、昭和41年(1966年)10月1日 新住居表示の実施に伴ない、
富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、
現在の富士見二丁目が誕生しました。

現在、当町会は東西約800メートルの長さが有り、
東京のお伊勢様といわれる東京大神宮をはじめ、
法政大学、日本歯科大学、東京逓信病院の他にオフィスビル、
大型マンション等の建物が多数立地しております。

中でも、早稲田通りは午前と午後の昼間の歩行者天国の時間をはさんで、
一方通行が逆になるという珍しい道路になっております。
飯田橋駅はJRだけでなく、東西線、南北線、有楽町線、大江戸線の4路線の地下鉄が走る
極めて交通の便が良い立地で、緑が多く(外濠公園)、住むにも働くにも便利な町です。
2020.6.7

1958年(昭和33年)に早稲田通りは逆転式一方通行になりました。

富士見二丁目の真ん中を通る早稲田通りの約1.5kmの区間
<牛込中央通りの入口交差点から九段中等学校前交差点>は
午前(0時〜12時)までは上り(靖国神社・皇居方面向き)、
12時〜13時は歩行者天国
午後(13時〜24時)までは下り(神楽坂・高田馬場方面向き)の一方通行となります。

日本で唯一とされる逆転式一方通行ができたのは、1958年(昭和33年)のことです。

故田中角栄氏の目白の自宅から、朝、国会議事堂に行く際と、
帰りに国会議事堂から帰る際に自分が帰りやすいように
時間帯によって逆転させたという説
(神楽坂の人達は今でも「角栄道路」と呼んでます=都市伝説)が有りますが、
実際のところは、当時の早稲田通りは歩道と車道の区別が無い対面通行の道路で
道路幅が狭く、地元の商店街の方々が、区役所や警察の交通課などに陳情して歩道を作る際に、
周囲の交通渋滞のことを考えて、時間帯によって車の進行方向を逆にすることにしたと言われています。
2020.6.7

戦争中、落下傘で降りて来た米兵を助けた話

昭和20年6月、終戦間際のある日
落下傘で降りて来る米兵を見つけて、町の人達はとび口や竹やりを手にして
殺気立って待ち構えていました。
ところが落下傘は富士見2丁目6番地の銀杏の樹に引っ掛かってしまいました。
何とか無事に銀杏の樹から手を挙げて地上に降りて来た米兵は、
青い目をした若くて可愛い青年でした。
それを見た町の人達は近くの富士見町教会に案内して逃がしてやりました。

終戦後、ヘレン・ケラー女史が平和大使として富士見町教会に訪れた際に
付き添ってきた青年が「この街の人達に助けてもらったお礼を述べたくて、
是非にと志願して来日した」との話が八田宣教師様から有ったそうです。

富士見2丁目の住人達は戦争中付近一帯が焼夷弾で焼け野原になっているにも拘らず、
落下傘で落ちて来た若い米兵をリンチすることもなく、助けたそうです。
このような、とても良い話が富士見二丁目には残っています。
(飯田橋プラーノ わがまち富士見の思い出 鹿島靖子氏より)2019.4.18

富士見2丁目は焼夷弾で焼けませんでした

太平洋戦争の末期、米軍は焼夷弾で東京の街を焼き尽くしました。
昭和20年3月9日の空襲では神田・麴町一帯が火の海となりました。
5月25日には牛込・神楽坂が焼けました。
ところが、この空襲で富士見2丁目一帯は焼けませんでした。
富士見2丁目一帯に落とされた焼夷弾は多くが不発弾でした。
屋根を突き破って落ちて来た焼夷弾を消した話や、銀杏の樹に引っ掛かった焼夷弾が破裂したところ、破裂と同時に銀杏の樹からで出た樹液で火が消し止められた結果、付近一帯が焼けずに残ったそうです。(飯田橋プラーノの鹿島靖子氏の話)
今でも富士見2丁目には関東大震災の後に建てられた家が残っています。
2019.4.16

富士見二丁目町会のお神輿

千葉県市川市行徳村の浅古周慶の作です。
お神輿は築土神社の社殿下の倉庫に保管されています。
宮出しの際は祭儀部の皆さんを中心に協力して行なっています。

2019.10.12

山車の太鼓は昭和31年9月製です。

山車の太鼓は富士見町2丁目と3丁目の連名で1956年、昭和31年9月に作られました。
その10年後
昭和41年の住居表示の実施に伴ない、
富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、
現在の富士見二丁目が誕生しました。

山車も築土神社の社殿下の倉庫に保管されています。2019.4.14

江戸時代

現在のJR飯田橋駅西口 飯田橋プラーノ、プラウドタワー千代田富士見は
江戸時代は武蔵金沢領主 米倉丹後守昌寿一万二千石の大名屋敷(米倉屋敷)でした。
2019.4.14

富士見小学校

明10. 4.15 創立、学齢女児を教育する
明19.高等科及び尋常科を設置
明20.本校附属幼稚園を設ける
明23.小学校令改正により尋常高等小学校となる
明41.高等科分離、尋常小学校
昭10〜11新教育を全国に発表
昭36. 5道徳教育研究校
昭52.11 創立100周年記念式典挙行
昭62.11. 7創立110周年記念式典挙行
平 4.11 創立115周年を祝う会挙行
平 5. 4. 1学校設置条例の改正に伴い、東京都千代田区立千代田富士見小学校となる
平16. 2開校10周年記念集会
平30.9 開校25周年

本来なら、開校140周年になるところですが、残念ながら平成5年に一旦、途切れています。
卒業生の中には、残念と言う人が沢山います。2019.4.14

旗本屋敷跡

JR飯田橋駅西口前の日本歯科大学附属病院は、江戸時代は旗本屋敷でした。

富永権左衛門という旗本の屋敷地で子孫は幕末まで住んでいました。
「下乗」(かじょう)という石碑が残っています。2019.4.14

幽霊坂

都内には幽霊坂という名前の坂が9カ所有りますが、千代田区富士見一丁目と二丁目の境界、角川書店本社の前の坂には、以前は柳の木が有り、柳から垂れ下がった葉の下を通ると幽霊に触られたような感じになるので、幽霊坂と呼ばれていました。
今では、柳の木も無くなり、当時とはすっかり様子が変わりました。2019.4.14

富士見2丁目にはこんな建物・施設が有りました

富永家屋敷門 - JR飯田橋西口駅前、日本歯科大学附属病院の入口付近に、空襲を免れて1966年ごろまで存在した武家屋敷門。
千代田区内に残っていた唯一の旗本屋敷門であったが、病院建設に伴って撤去された。

逓信博物館 - 飯田橋教会の隣、現在のサクラテラス入口付近にあった。
尖塔をもつ古い洋館の中に開設され、前庭に前島密の銅像が立っていた。
1964年、大手町に逓信総合博物館が開設されて移転(現在墨田区にある郵政博物館の前身)銅像は上越市の前島記念館に移された。
サクラテラス内にある飯田橋郵便局はその名残。

牛込駅出入口跡 - サクラテラスの向かい側、外濠土手と牛込見附石垣の間にレストランや商店が数軒並ぶところが、旧牛込駅の出入口跡。
1928年に牛込駅と飯田町駅が統合されて飯田橋駅となってから閉鎖されている。

山階宮邸 - 現富士見二丁目14番地、靖国神社遊就館の裏手に向かう角に正門があった。
戦後は郵政省宿舎(常盤寮)となる。
ここで育った山階宮菊麿王の三男筑波藤麿は、戦後靖国神社宮司となる。

武田久吉(アーネスト・サトウ)邸 - 富士見二丁目、現法政大学80年館(図書館)。
アーネスト・サトウが内妻の武田兼(かね)のために購入し、
次男の武田久吉(植物学者・登山家)が引き継いだ。
1981年に法政大学が買収し、校舎を建設。
武田邸内には、番町皿屋敷の「お菊」を祭ったといわれる稲荷の祠があった。

河本眼科 - 武田久吉邸の東隣にあった。
東京帝国大学の初代眼科学教室主任教授で、明治天皇の侍医も務めた日本の近代眼科医の草分けである河本重次郎が自邸に開設した眼科医院。
1965年ごろまでお化け屋敷のような純和風の邸宅の中で開業していた。
玄関前で富士見小学校、九段中学時代はキャッチボールをして遊んだ。
現在はアコムの事務所ビルとなっている。

嘉悦学園(中学校・高等学校) - 富士見二丁目にあったが、2006年に臨海副都心の江東区有明に移転し「かえつ有明中学校・高等学校」となった。
旧校地は法政大学が買収し、市ヶ谷キャンパス富士見坂校舎となっている。

東京警察病院・東京警察病院看護専門学校 - 看護学校は富士見一丁目、病院は富士見二丁目に有りました。2008年に中野区へ移転。

フジボウ会館ビル(コートメダリオン)- 現在の飯田橋グランブーム(サクラテラス)の中に有った。

2019.10.12